声もない ひびかないずっとロンリーアクション

諦めることが大人ではない、と僕はTwitterでつぶやいた。それは自分に対して言い聞かせた言葉でもあった。あまりにも周りの大人たちの諦めた言葉を聴く機会が多く、諦めの悪い自分が惨めに思えたからだった。諦めることが賢い生き方なのだろうか? 理想なんて捨てて、長いものに巻かれて、波風立てないように穏やかに生きることがまともな大人の生き方なのだろうか? 僕は仕事を通して社会を自分の理想とする方向に少しでも動かしたいと思っている。でもそんなこと言ったらみんな笑うだろうか? 若造のサラリーマン1人の仕事で社会なんか変わらないよって。そんな身の丈に合わない理想なんか捨てて、そこそこ世間体が良くてそこそこ稼げる仕事を細く長く続けるのが賢いやり方だよって、僕の中の誰かが僕を常に嘲笑っているけど、どうしてもそんな生き方ができないんだよ。僕は自分の感受性を信じていて、その感受性で一番社会の役に立てる場所はここしかないと思ったからこの仕事を選んだんだ。劇場という場所は社会の中でどうあるべきか? その問いは一生考え続ける価値があると思ったからこの仕事を選んだ。なのに何だ今の体たらくは。何の思想も体現できていない。自分の所属する組織が間違っていると思う方向に進んでいてもそこに異議を唱えることすらできない。若いうちは思うとおりにいかないよって尊敬する人が言っていた。わかるけどでも悔しいよ。僕のこの気持ちは嫉妬だとかエゴなのか? 何の役にも立たない負の感情だっていうのか? あなたは真面目過ぎる、家に帰ったら仕事のことなんて考えないほうがいいよって上司に言われた。でも今の仕事は僕の生きる軸そのものだから悩むことがやめられない。逆に悩むことすらできないような仕事に日々大量の時間を費やせるメンタルがほしい。わかってるよ、つまんない人間だってこと。仕事以外考えることがない暇人だからこんなことになってんだよ。同世代のまともな男はちゃんと彼女作って人生進めてんだよ。それが俺は何だ? 誰にも伝わらない悩みにストレスかけられて、食べてオナニーして寝てるだけじゃねえか。高校生の頃からやってること変わってないんだよ。可愛い女の子を見ると劣等感で死にそうだ。美しいものに関わる仕事なのに自分はどんどん醜くなっていくばかりで本当に嫌になる。どうすればいいんだろう。とにかく自分の理想に少しでも自分が近づいている実感がほしい。こんな執着にも誰か美しいと言ってくれないだろうか? できれば可愛い女の子がいい。

ここからまだ行ける 今も変わらず 何度も

僕には僕であること以外に価値なんてないのだ。だから僕は、僕がしたいようにすればいいと思う。だって、誰かのために生きることなんて誰でもできる。僕のために生きられることこそが、僕が僕であることの何よりの証拠なのだ。

 

社会人5年目の春を迎えている。嘘だろ?

僕はこの5年の間に、2回転職をした。1回目は社会人1年目が終わった春、2回目は社会人3年目が終わった春に。つまり、3年以上同じ職場にいたことがない。大学に入った頃、こんなキャリアになるとは夢にも思っていなかった。あの頃は教育学部を出て普通に学校の先生になると思っていた。でも大学を卒業した春にはなんとなくこんなふうになるような気はしていた。そのときの僕には僕がしたいことがわからなかったからだ。

社会に出るのが怖かった。人と関わるのが怖かった。ていうか今も怖い。大学の頃はできるだけ人と関わらなくて済むバイトを探して、倉庫内で軽作業をしていた。フォークリフトでパレットを引っ張って、その上にコンテナやダンボールを積みながら冷蔵倉庫の中を歩き回るバイト。社会の裏側が覗けたみたいで楽しかった。人生どんなに失敗してもここになら戻ってこられるような気がした。そういう場所を求めていた。だけど、最初からここにいるのは怖い。何がしたいのかわからなかった僕は、とりあえず多くの人の役に立ちそうで、そんな社会の裏側とも関わりを持ち続けられそうな会社を選んだ。工業系の商社だった。いろんな工場で使われる消耗品を販売するルート営業。ド文系の僕にはすべてが新鮮だった。「ご安全に」という挨拶。CADで描かれた部品の図面。プロボックスで博多から唐津まで運転する毎日。助手席で他の営業所の同期と電話で喋りまくる上司。ベルトコンベアのベルトをくっつける専業の職人(元営業マン)。社員旅行。社長に連れて行かれた中洲のスナック。初めて見るものばかりだった。社会って面白いなと思った。だけど、自分が何をしたいのかはまだわからなかった。

結果が全ての営業の仕事にも、今なら前向きに取り組めるかもしれない。自分には合わないと思っていた、パチンコや風俗の話ばかりするあの取引先のおじさんとも、今なら仲良く話せるかもしれない。だけど、そのときはなぜだか営業の仕事がとても窮屈に感じた。関わる人すべてがつまらなく感じられた。自分よりもっとこの仕事に向いている人がいると思えてどうしようもなかった。

だけど社会人1年目に見た世界は今も鮮明に覚えている。社会人2年目以降は、ずっと劇場という場所で働くことになるのだけど、僕の意識はいつも劇場の外で働く人たちに向いてきた。この街に住むすべての人がそれぞれの小さな世界で生きている。ときに傷つき傷つけられながら、決してわかり合うことはなくすれ違いながら生きている。そんな人たちが一瞬でもわかり合える瞬間に立ち会いたいと思った。そんな場を作り続けたいと思った。落研のとき、僕は何回もそんな場を見せてもらってきた。だから劇場という場所に興味を持った。

 

続きはまた今度酔っ払ったときにでも。

僕たちの目は見えすぎて ずっと宗教のように絡まるから

何か書きたい気分なんだけど駄文しか出てこない。しばらくまとまった文章を書いていないから、書く能力が落ちているのかもしれない。アウトプットだけでなく、インプットも最近怠っている。同じ曲ばかりいつも聴いているし、読書や勉強をしていないし、知らない場所へ行っていない。つまり、そもそも書くほどの内容がないということだ。ただ漫然と仕事をして家でダラダラしている。でも、仕事は楽しい。職場の人たちは優しい。それは、いいことだ。

転職して早8ヶ月。秋口からにわかに忙しくなり始め、今までのサラリーマン人生で最長残業時間を記録した(あくまで自分の中の記録であって、他の同世代と比べれば「普通」の範疇に入る時間だと思うが)。それもあって、あと寒くなったのもあって、生活に対するやる気が落ち、買い物や料理をする気が起きなくて外食ばかりしていた結果、太った。肌もめちゃくちゃ荒れている。職場は平均年齢が若く、綺麗なお姉さんやかっこいいお兄さんがたくさんいるのでこんな小汚い人間が一緒にいてもいいのだろうかと思って、慣れない美容室へ行ったり服をやたら買ってみたりしたが、特に楽にはならなかった。相変わらずきつい日はきついし、なんともない日はきれいな人たちとおしゃべりできてラッキーくらいの感覚で仕事をしている。時々この意味の分からないコンプレックスに振り回される。痩せたり肌をきれいにしたりしないと、きっと一生治らないのだろう。

僕には、気分が落ちると寂しくなって恋愛をしようとしてしまう非常に困った性質があり、今年は齢26にして初めてマッチングアプリに手を出してみた。結果2人に会ったが続かず、2人にやり取りの途中でブロックされた。電話してる途中で切られてブロックされたのには流石に驚いた。そんなに僕の話がつまらなかったのだろうか。ネットを介して出会うだけで人間というものはこんなにも残酷になれるのだなということを学びつつ、課金してしまった残りの2ヶ月を如何にして過ごそうか、決めあぐねている。

ここまで書いてみて読み返してもやっぱり面白くない。だめだ今日は。さっさと家に帰って寝よう。ちなみにこの文章は快活クラブで書いている。家で全然何もできないから持ち帰り仕事を消化するために無理やり来てみたものの、漫画を読み続けて何もできなかった。人間は結局どこにいるかではなく何をするのかが重要なのだ。僕だってやるときはやる、そんなことは僕が一番よくわかっているのだ。けれどとりあえず外に出ることで「やろう」という意志は少なくともあるのだ、という言い訳を自分に対して用意したかったのだ。そんな的外れな努力をするくらいなら最初から家で腹を決めてやれば良いものを。

快活クラブにいると、いつか40代、50代になってもまだ僕は一人でここへ通い続けているのではないかと思ってなんだか怖くなる。「もし東京なんか行って、路頭に迷ったらどうするの」といういつかの母の言葉を思い出す(結局東京には行けなかったのだけれど、これから先行くかもしれない)。去年の冬、転職する前に実家から快活クラブに通って「アフロ田中」シリーズをずっと読んでいた。僕も田中のように出会った人たちを大切にして生きていればなんとかなるものだろうか?

明日は演劇を観に行く。明後日は浪曲を聴きに行く。客席にいるときは心底安心する、隣には同じ作品を見に来た客がいて、舞台には客のために演じるアーティストがいて、舞台裏にはその空間のために働く裏方がいて、寂しくないから。